ハロウィーンの翌日はAll saints day でその翌日はAll souls day。カトリック教徒にとっては特別な日であるらしい。All souls dayは日本のお盆のようなもので亡くなった人を思い出し悼む。


今の私には教会に週一度行って、人々からエネルギーを貰うのがリハビリのプロトコールの一部になっている。特に昨日は「Music Sunday」だったので楽しみにして行ったのだが、今週の音楽はパイプオルガンを主にしたミサ曲。そしてテーマは亡くなった人を悼むものだった。音楽の合間に人々が「私は亡父○○を悼みます」とか「亡き妻○○を思い出します」とかマイクの前で言葉にする。もちろん自由意志だから、何も言わない人も半数ぐらいいる。


教会の窓からのぞく青空を見上げながら、音楽を聞き、追悼の言葉を聞いているうちに涙がとまらなくなった。


5月に癌の診断を受けて以来今まで、抗がん剤放射線、手術と経て来た。「食道癌」の診断をうけて最初に見たCancer Societyのウェブでの生存率は10%以下だった。幸運なことに全ての治療がうまくいったけれど、現在私の前に提示されている5年生存率は50%。根本的に楽観的だし、人の運命なんて何があるか分らないと思っているので、これらの数字を意識して嘆くことも不安になることもなかった。


「○○を悼みます」という言葉と荘厳な音楽の中で「意識下にあった死と隣り合わせの現実」が浮上してきたのだろうか。「まだまだ家族のために死ねない」(「死にたくない」という感情とはちょっと違う)と強く思い、ちょっとシュンとなった。


こういうタイプの涙、あるいは感情は堰が切れる。


遅々として進まない「食べる訓練」、術後の傷跡他の痛みなど、危機は通過したのだけれども、回復期の単調で変化のない(それ故に家族にさえも理解の難しい)ちょっとだけ苦しい毎日が続いている。


今年は米国の友人の多くが癌にかかったのだが、皆治療が上手く行き現場復帰を始めている。彼女達の生存率は80%や95%。もちろん手術の痛みや抗がん剤の後遺症があるけれど、私のように「新しいボディ」の訓練をする必要はない。


比較するつもりはないけれど「癌は癌でも何でこんなに厄介なものにかかったんだろう」と問うても仕方のない感情が湧き出てくる。もちろん、その感情は「なぜお金持ちの家の子供に生まれなかったんだろう」みたいな不毛なものであることは充分に分っているのだけれども。


メーンの小屋に籠ってペーパーを書いていた夫が帰ってきたのは、丁度そういう感情の嵐の中に沈んでいる時だった。前回のブログに書いたようにぺったんこの靴を買いに行きたくて、早めに帰って来てもらったのだが、不機嫌な妻に迎えられて迷惑だったと思う。


ショッピングの方は一応収穫があって、履きやすそうな靴を廉価で求めることができた。そして、その後モールを1.6キロ散歩して心もいつもの「お気楽」に戻った。


今、朝飯を食べた後これを書いているのだけど、スクランブルドエッグにヨーグルト1パック、イングリッシュマフィン半分、コーヒー1.5杯の内容。30分かかったけれど、普通の人と余り変わらない筈だし、食後のぼーっとがあまりなくなって、この時間にブログが書けるようになった。


冷静に考えれば、かなりのペースで食べられるようになっているのだ。さて、今からおやつのチーズケーキを食べよう!