前にブログを書いてからおよそ1年。相変わらず仕事は忙しく、旅行の多い生活をしていますが、元気です。食道癌治療から7年以上が経ち自分の中では癌経験の風化が進んでいます。

でも、昨日40歳の友人の死に直面。癌との壮絶な闘いでした。同じエントリーをid:kuwachann-2_0にも書いています。

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メラノーマと壮烈に闘った友人が昨夜亡くなった。

ここにも書いたけれど、友人は夏に殆ど亡くなりかけた。ところが鍼治療で奇跡的に回復を遂げ、秋学期(9月−12月)は1度も休むことなく講義を行った。

民間治療や代替治療は様々に批判されるけれど、8月の半ば頃から始めた鍼治療のおかげで膵臓機能が戻り、食べられるようになり、背中や腕のメラノーマがドンドン消えて行った。ホスピス治療で死を待つしかないと言われた人がどんどん元気になる様は文字通り奇跡だった(奇跡という言葉は本当に体験した人でなければ理解できない。)

9月には戻った食欲のおかげで体重が増え、体力がつき、ジムに通い出し、12月には奥さんの実家のある台湾に里帰するためのチケットも購入した。また体力が戻ったおかげで新たな治験に参加しだした。ところが10月に大きな腫瘍が脊椎を押していることが分かり、半身不随になる可能性があるにも拘らず手術。大手術だったのに手術の日に1泊した後は教授会議に出て、翌日は授業を行った。

しかし、この頃からメラノーマの新しい腫瘍が体に広がり出し、吐き気が襲うようになった。メラノーマの姑息治療は表に出て来た腫瘍を外科手術で切り取って行くしかない。それをしないとQOLが悪くなる。この頃になると2週間置きぐらいに腫瘍を切り取らなければならなくなった。また体重も減って来た。12月の第1週から弟2週にかけての台湾の奥さんの実家への里帰もかなり危ぶまれる状況になったのだが敢行。

飛行場への送り迎えをしたのは私。往きのドライブの時も体力的に大丈夫かちょっと懸念した。でも5年ぶりの2人での里帰を楽しみにしている高揚感が手に取るように伝わって来て「これがQOLというものかもしれない。いいじゃない、それで」と自分に言い聞かせた。しかし台湾についてからは嘔吐がひどくなり、何も食べられない。痛みが増すばかり。およそ1週間余の滞在中2日間は病院に行って点滴を受けモルヒネを打ってもらう。10日後(12月11日)に迎えに行った時はすっかりやせ細り、乗り換え移動のためには車椅子を使わなければならなかった。

その後10日間ほども今後の治療と姑息の外科手術で病院と医者を忙しく往復する生活が続いたのだが、年明け早々にウースターの病院に緊急入院(MRIを撮りに行ったのだがあまりに状態が悪く強制入院)。ここはかなり大きな医療センターなのだが、対応しきれないとのことで4日後に救急車でボストンのBrigham & Womenへ運ばれた。結局胃自体と胃と腸の間が腫瘍で塞がれて食べ物の摂取ができない状態にあることが判明。そして様々な検討の結果、病状は治療の限界を越えているということでウースターのホスピスに運ばれた。

10日間のハワイ旅行の後、ホスピスを訪問した時の彼はすっかりやせ細り、寝ている時間が増えていて、お見舞いに行くと言うよりは奥さんのサポートが訪問の目的になった(ホスピスでは点滴は行わない。)

こんな状態だったのに、1月14日から始まった春学期の講座を彼は敢行した。第一日目には教室に行ったのだがあまりに状態が悪いので学科長がスカイプを使って教えることを示唆。彼の作ったパワーポイントを使ってティーチングアシスタントが教え、彼が質疑応答を加えるという形の授業方式をとった。

この形式での授業を1月30日まで行ったのだが、最後にはモルヒネのせいでずっと起きていられない、言葉の発音がはっきりしなくなるという状態になり2月からはアシスタントが授業を続行。

結局亡くなる1週間前まで講義を続けたことになる。

去年の終わりだったか、教会に久しぶりに行った時「人は時々親切にするように、命じられることがある」という話を聞いた。私と夫の場合、彼と彼の奥さんを助けることはまさにそれ。何の恩があるわけでもないのだが、お手伝いをできる機会を与えられたことを名誉とさえ感じる。

なくなる2時間ばかり前に奥さんから「電話でいいたいことがある?もう何も喋れないけど、まだ彼聞こえるから」と言われた。

「〇〇、友人関係をもてたことを感謝します。おかげで私達は沢山の勇気と元気をもらいました。〇〇(奥さん)のことは出来る限り面倒みます。有難う」

自然に出て来た言葉はこれだった。

最後になるけれど、彼は亡くなる3日前まで1週間に2、3度の鍼治療を行った。鍼治療を行った日は痛みが軽減されペインキラーの量を半減することができ、安らかな眠りを得ることが出来た。