9月26日の朝は霜がうっすらと降りていて、すごい上天気。例のごとく週末はメーンに来ているので、1日中きらきらと輝く海をみて時間を過ごした。


普段は「5年生存」とか、転移とかには全く関心がないのに、ここ10日ぐらいは「そろそろ26日だな〜、摘出手術から3年だな」と頻繁に意識した。摘出手術というのは自分で意識するよりずっとトラウマ度が高いのだろうか。前にも書いたけれど、渡り鳥の習性のようにインプリントされてしまったようで、秋の日差しのメーンと手術の思い出は切り離せないようだ。


過去3年間、このブログを通じて様々な方と交信した。ことに雄三さんがご自分のサイトに私のブログをリンクして下さった後は、頑張って今も生きている人々、生きた人々を知ることになった。
悲しいことに食道癌は癌の中でも横綱級で手強い。雄三さんのサイトの闘病サイトは全て存命中の方々で始まったのに今その半分は鬼籍に入ってしまわれた。


しかし『死ぬ』ということは『生きる』ことだ。ブログを残していらっしゃる方々の記録を再読すると不思議な生命の感動があり、勇気や元気を貰える。


下に引用するのは、3年間時々メールを交換していた方からのお手紙。M子さんは治療の最初の頃は「死にたい」と言う言葉を頻繁に口にする普通の女性だった。だけど、治療がすすむにつれ、ご主人と共に強くなっていった。彼女の生き様は残された家族の心の糧になることだろう。


合掌


以下引用


M子は、6月27日午前9時45分永眠しました。看護士さんは、身体全体を整える処置をしてくださいました。そのあとしばらくして、病院の看護士さんが、「葬儀屋さん紹介ししますか?」と言われましたが、M子が再発がんとの闘いを始める前に、もし亡くなったらどうしてほしいかを私に伝えておいたこともあり、「決めているところがありますから」と言いました。M子は、がん再発を知った後、墓地を決めて、こころの整理をしてがんとの闘いにのぞみました。そしてそのセレモニーセンターに通夜、葬儀の法要を依頼しました。その日は、M子を家に連れて帰り、親類の方々を北海道から呼んで、夜通し兄弟がろうそくと線香をたやさないようにしてくれました。


翌日は通夜、その次の日は葬儀、2〜3日はいろいろと事務処理があり(まだまだだくさんありますが)、やっと先週から会社に出勤しています。会社に出て、仕事をしていると気が紛れるのですが、それ以外は、M子の事を思い出し、本当に辛いです。まあ、時間が解決してくれると思いますが。


食道癌が再発したのが昨年8月、9月からがん休眠療法を始め、今年になって
からも順調にその治療が続いていたのですが、食べても食べても吐くという状況
を克服できず、今年になってから体重が40kgを切ってしまいました。M子も自分で考えられるありとあらゆる方法を試み、何とか食べられるように努力していたのですが、年末まで保っていた40kgを切ると、どんどん体重が下がり、34kg程度になって、入院、中心静脈栄養法も体力増加には至らず、低体重のまま均衡状態となりました。


6月に入り、退院の準備をしなさいとの主治医のアドバイスのもとに、外泊、外出を行なっていたのですが、6月14日から急に病状が悪化し、あまり動けなくなり、話もしづらくなりました。これまでのがんとの闘いでからだ全体の力が弱まっていたのだと思います。主治医からは、「栄養を入れても身体がそれを受け入れることが出来ない状態なので、栄養を入れるのを止めます。がんの治療もやめます。もう長くはないです。」といわれました。6月16日のことです。


M子は、急に栄養点滴がなくなり、薬もなくなったことに不審に思い、手元に残っていた抗がん剤ゼローダを手に取って、これだけは飲まなくてはいけないんだと言って、飲みにくい錠剤を噛んで、くちびるを真っ白にして、一生懸命飲みました。先生もほかにやりようがなかったのかもしれないのですが、栄養も薬も与えられず、肺が動かなくなるのを待つ。これでは、戦時中の上野動物園の象、花子の悲劇と同じではないか。そう考えるとほんとうに辛かったです。先生は2〜3日しかもたないだろうという見解でしたが、そんな状態になってからでも、M子は11日間も生きました。息子と私は、交代で24H付き添いました。私は夜病室で仮眠をして、昼間会社に行くということを1週間ほど続けました。生理食塩水主体の点滴だけでしたが、肺はしっかり動き続け、先生も驚くほどでした。M子は、「まだ死にたくない。生きていたい。おうちに帰りたい」というので、「おかあさん。生きる執念持つんや。元気になって家に帰ろう。」と言って励ましました。息子も私も、「おかあさんは、すごい」と言って、M子の頑張りに感動しました。これなら奇跡が起きるのかも、と思ったりしました。しかし、6月27日深夜から心電図が乱れ始め、朝がたから肺の動きも弱くなりました。お姉さんと息子と私が見守るなか、心電図が一直線になり、心拍0と表示されました。3人は、「M子息するんだ。」、「おかあさん息するんだ。」、「M子、生き返るんだ。」と必死で叫びました。すると、肺が動き始め、心電図も復活しました。しばらくして止まり、また3人がM子に向かって叫んで心臓が動き出すといったことを繰り返しました。ついに、いくら叫んでもM子は動かなくなるのですが、あの光景を思い出すと、M子はもっと生きていたかったし、私たちも死なせたくなかったのですが、皆が精一杯たたかって、力尽きたという感じがします。


食道癌とわかって2年半、とりわけ再発してからの10ヶ月はがんとの壮絶な闘いでした。そんなに苦しまなくても、そんなに頑張らなくてもという考え方もありますが、頑張り屋のM子にはそれがふさわしかったようにも思います。M子は、やろうと思ったことは必ずやる、それがだめでも後悔しないとよく言っていました。


再発してからは参考になる食道癌の情報がほとんどなく、M子も「ほかの人はどうしているのだろう。私だけこんなに苦しむのだろうか。」とよく言っていました。乳がんでは、ワット隆子さんがアメリカ在住時に知った「REACH TO RECOVERY」と同様な乳がん患者組織「あけぼの会」を作り、各県に下部組織があるそうです。乳がんの患者さんは再発しても抗がん剤治療を何年も続けられている方が多く、M子もそうしていくつもりだったので、がんの種類は違うが、退院したら神奈川あけぼの会に話を聞きに行きたいと言っていました。


今、M子のお墓をつくっています。M子は花がとても好きだったので、墓石には華と彫りこんでもらうつもりです。東京郊外の緑に囲まれた霊園にあり、いずれ私も入ることになるのですが、もう病気との闘いはなくなったので、M子にはそこで安らかに眠ってほしいと思っています。


2年前、東京医科歯科大でのケモラジ治療の頃、○○様にはいろいろとアドバイスいただき、どうもありがとうございました。


以上、その後の状況ご報告まで。

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現在はkuwachann-2_0、id:kuwachann-2_0の日記にノー天気な記録を付けていますが、検診のような大きなイベントがあった時はこのブログもアップデートしています。。

もし万が一(読者がいると想定して)食道癌のことで質問がおありでしたらいつでもコメント、あるいはプロフィール欄のメールでご連絡ください