シアトル1泊、東京1泊、名古屋3泊、鹿児島3泊、東京1泊のスケジュールで昨日帰宅。今回はいつも翌朝を心配しなければならないスケージュールだったせいか、結局時差ぼけが抜けることがなく一番良く寝たのは眠剤を使った帰りのフライトと言う慌ただしい旅だった。でも仕事で出席したボストン名古屋美術館10周年記念行事も、鹿児島での両親のお祝いもとても感動深く、「生きていて」良かったとつくづく思った。


旅の最後の夜は東京近郊に在住の日本教育史の研究者(80歳)宅を訪問した。先生には夫が論文や本の執筆に様々にお世話になり長い御付き合いなのが、先生は3年前に黄斑変性で視力を失ってしまった。現在夫は先生の著書の英訳を考えていているため、今回代役で前哨的インタビューをすることになった。本来ならば私みたいな知識も教養もない人間がお話を伺うのもおこがましいような方なのだが、私と彼の運命は奇妙に交差した時期がある。


私が癌に罹病しているのが分かったのが2年11ヶ月前、先生が失明したのが3年3ヶ月前の2006年。実は2006年のお正月(3年4ヶ月前)、私は全くの別件でお宅を訪問して美味しいきりたんぽの鍋料理を頂いた。もちろんその時は2人ともぴんぴん元気で1か月後、数ヶ月後にお互いを襲う病気のことなんか知りもしなかった。


2006年に数ヶ月に及ぶ癌の治療を終えた私は、2007年の春、日本で滞在研究している夫を池袋に尋ねた。もともと旅が大好きな私にとって、どこまで飛行機に乗れるか、どこまで旅を楽しめるかが回復のバロメーターであり目標であったのだ。先生ご夫妻には10年程前に米国の我が家に来て頂いたこともあったので、その春も気楽にお声をかけた。


ところが電話口でお聞きしたのは「実は黄斑変性で失明してしまいまして」というショックな内容のニュース。兎に角と言うことで4人で料亭の懐石料理をご一緒した。その時でさえ、目は殆ど見えないと言いながら先生はトイレには1人で立って歩かれた。その頑固さと意志の強さ、またそれを黙って見ていらっしゃる奥様の絶妙な対応には随分感心したものだ。


その時、「まだ未熟な若い時代に書いた本が大きな賞を頂いてしまいました。それを改訂することが私の人生の課題です」と前向きにお話をなさり、昔の教え子達が先生の旧著を1節ずつ朗読しテープに取り、改訂の支援をしてくれていると教えてくださった。


そして。。。去年の秋先生の御本の改訂版は出版され、米国の我が家にもお送り頂いた。先生は自分の本の朗読のテープを聞き、大きな字で文章を書く。そして奥様が推敲しながらワープロに入れる。それが実った!夫はこの御本の英訳を考えているのである。


先生の視力は3年前と変わらず、殆ど見えない。しかし、お宅の中ではまるで見えているかのように素早く動き回る。書庫のどこに何の本があるかはっきり分かっていらっしゃる。食後のコーヒーは自分で入れてくださる。そして大きな字で自筆のお手紙を書かれる。今でも色々な所に迎えられて講座をなさる(その時は駅の降り口まで出迎えを頼むそうだ。)日常は、5時半起きで奥様と散歩をし、6時半のラジオ体操を公園でなさっている。


今回も清々しい春の空のもと、先生が私の重いリュックを背負ってくださり、お二人に駅まで見送って頂いた。帰りはお二人で散歩なさるそうだ。お二人から沢山の元気と気力を頂き、もっと大事に時間を使おうと思ってホームを降りた。


それからおよそ24時間後米国の自宅に帰り着き、ここ2週間近く見れなかった食道癌関連のサイトを読ませていただいた。この2週間でお二人が亡くなっていた。覚悟はしていたものの、その急転直下のスピードには言葉もない。寿命とはあらがえないものだ。だからこそ、生かされている命、寿命がある間は、もう少し大切に、ていねいに、「今」を意識しながら生きなきゃ。