前回「告知について」のエントリーを書いて、たけしさん、akkoさんからとても思慮深いコメントを頂いた。それを読みながら、告知と言っても様々に場面が違っていて私やakkoさんの言及するものとたけしさん他、ケン三郎先生の所に書き込まれているものとは違うものだと感じていた。ちょうどその時私信でお父様が食道癌に罹っていらっしゃる方からご意見を頂いた。彼女の分類は私が感じていたものをとてもきれいに整理なさったものなので以下に抜粋させて頂く。


(以下引用)
1つ目は「がん」という病気であることの告知、この事に関しては
現在の日本ではほぼ間違いなく本人に伝えられているのではないかと思います。
これは、ひと昔前は手術だけだったがん治療が多様化し、がん≠不治の病と
なったきたこと、またこの多様化された治療が、本人に告知しないと
施すことが難しいものとなっているからなのでしょうが・・・


2つ目は病状の告知、このへんはかなり病院の体質、医師の個性によって
変わってくる部分ではありますが、インフォームドコンセントという言葉の下に
話すべきことは話して責任を果たすというのが昨今の傾向のように思います。
言葉は悪いですが、最後に「何か質問はありませんか?」と聞き、何もなければ
OK、みたいな・・・先生もいるとのことです...



(これが)3つ目の予後の告知につながるのだと思います。
この予後の告知(簡単に言えば「余命」...父が通っているがんセンターのソーシャルワーカーさんに以前お聞きしたことがあるのですが、その病院では本人からの希望があれば余命の話をするという事でした。逆に言えば聞かれなければ話をしないということなのでしょう。確かに今すぐ命にかかわる方でなければ、多分に確率論になりうる話です。ただ、末期がんの場合は、家族には話をすると言っていました。医療の世界でも説明責任がつきまといますから、昨今の状況では嘘は言わないでしょう。たぶん言えるのは、家族からの依頼があった時だけだと思います。とはいえ、周囲の人々の話を聞くと病院によって、医師によって随分違うようです。インフォームドコンセントだと言って、初診の際、本人一人の時に余命3か月と告知された人もいました。(引用終わり)


1と2については、下のakkoさんのコメントにあるような「書面による告知の選択」があればあまり問題が起こるとは思えない。そして3つ目の余命にしても、私の年齢(たけしさんや室川さんを強引に入れてしまいます)や、私より若い人の年齢の場合、病期を知らされれば多分多くの人が自分たちでリサーチをして、反対に医者に質問をする場合が多いのではないだろうか。それは多分「まだやり残したことが多い」し、「ある程度理性で対処できるだろうという見込み、あるいは自信があるからかもしれない」し、「これまでと同じく自分らしく生きたい」からかもしれない。


しかし、自分が癌に罹って驚いたことは「私は癌患者としてはまだヒヨッコなんだ」という自覚だった。腫瘍内科医のクリニックに行くとカテーテルや点滴で化学治療をしている人の殆どはご老人。その中に私を含めて少数の50代、40代、30代の人が混じる。当然歳とった人は血圧だとか心臓だとか他の問題も多く抱えている。 もう既に歩くのも不自由になり車椅子や歩行器を使っている人も多いし、連れ添っていらっしゃるパートナーの方の足下も危うい。 (相対的に言えば)若い私がひぃひぃと苦しんでいた化学治療を淡々と、時には陽気に受けている彼らを見て「私も頑張らなくちゃ」と思ったことが多々あった。


自分の両親の年齢の年老いた患者さんのことを思うと、果たして「余命の告知」が必要なのだろうかと思ってしまう。私の父も80を前にし、メンタルにも肉体的にもすっかり弱くなった。歩くことさえもつらいことが多いのだけれど粛々と頑張って生きている。彼の年齢になると友人や連れ合いを失う人も多くなり、お墓も建て死を迎え入れる準備をしつつある。彼にとっては、癌であれ、心臓発作であれ、脳溢血であれ、いつ死が訪れてもおかしくない。そして余命が1年先でも1ヶ月先でも、運命であり天寿でしかない。多分彼が癌にかかり告知を受けても、それ以上を知る努力はせず、お医者様を信じて一日一日治療を受け入れることだろう、心の片隅に死の可能性を常住させながら。


そして、そういう場合、医者は告知を迷うのだろう。


また、医者が告知や説明を迷うのは、治療がどんどん裏目に出てしまう場合に違いない。ケモもラジも手術も患者にはとても大きな負荷を与える治療だ。次々と加える治療が患者を弱らせるばかりに終わった時、医者は経験則と患者、そして家族の心理の間でどこまで伝えるべきか迷い、ケン三郎先生の言う「阿吽の呼吸」が必要になるのだろう。


たまたま米国のシステムの中で食道癌の治療を受けた私には、日本の外科医達がここまで患者のことで悩み、気を使っていることが驚きであり感動である。このブログでも何回か書いたけれど米国の癌治療は腫瘍内科医を中心に行われる。化学治療や血液治療を専門に行う腫瘍内科医(oncologist)が患者のケアマネジャー/プロジェクトマネジャーの役割をなし、治療の中核となり適切な外科医、放射線科医を紹介してくれる。つまり外科医や放射線医は技術的なスペシャリストで、患者のメンタルなケアは患者が頻繁に通い「患者と密接なrelationship(関係)があって患者を総体的に見れる」腫瘍内科医の役割になっているのだ。食道摘出手術は8時間もかかる大手術。そんな大変な労働をなさる医者が患者のメンタルな部分まで受け持たなければならないのは過酷なことのようにも思われ、ただ頭が下がる。


前のブログのコメントでもケン三郎先生のコメント欄にも書いたけれど、米国のLiving Will (延命措置を拒否する遺言)やHealth Care Proxy(治療に関する選択委任状。手術の前に自分が治療を選択できない時を想定して選択してくれる人を委任する。その際、勢い自分がどこまでの治療を望むかの会話が発生する。米国ではこの委任状を義務づけている州が多い)が日本の文化の中でも根付くといいと思う。余命幾ばくという状況になる前に、患者一人一人が自分がどこまで延命措置を望んでいるのか、どんな治療を選ぶのかを考えるようになると医者の負担も、家族の心理的な負担も減ってくれるように思うのだ。


実は、私はおみくじをひかない。おみくじを信じないと言うのではなくて「貴方の運命は。。。」と言われるのが怖いのだ。子供の頃は通知表を見なかったこともあるし、米国の大学で教えていた時は学生による先生の評価を見なかったこともある。悪いことを言われるのが怖かったのだ。そういう意味では「病気のことを知りたくない」と言う人の気持ちも良く分かる。なのに告知については全く別で、冷静であったのは本当に不思議なことである。


最後になりましたが、私の舌足らずだったエントリーにコメントやメールを下さった方々に深く感謝いたします。

PS:

文芸春秋2月特別号の筑紫哲也「がん残目録」を読んだ。「はっきりとした余命をつたえることは『ダメか』と思わせることになるから、と家族で結論を出して、伝えることをしませんでした」(136頁より引用)とのこと。しかし10月半ばには(亡くなったのは11月5日)(以下引用140頁)「本人も...気付いていたんじゃないかと思うんです...起きるたびに『ア、まだ生きてた』なんて軽口叩き始めたのも、ちょうどこの頃ですね」(妻・房子さん)とのことだ。

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現在はkuwachann-2_0、id:kuwachann-2_0の日記にノー天気な記録を付けていますが、検診のような大きなイベントがあった時はこのブログもアップデートしています。。

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