ここにもよく書き込みを頂いているケン三郎先生のサイトで患者に告知するか、しないかが大きな論争になっている。


「余命幾ばくの状態になったら絶対に何があっても言ってほしい」と20代の頃から思っていた私には「告知されるのが怖い」とか「絶対に言ってほしくない」という人の声がとても意外でびっくりしている。


面白いのは、と言うと語弊があるけれど、患者の立場で発言なさっている室川さんが『絶対知りたい』とおっしゃり、ケアをする側の人々が告知に反対なさっているようで、患者は知りたいと思っているけれど、周囲の優しい人々は報せたくないみたいな分布になっているように思えるところだ。


これはあくまでも私の個人的な感覚だけど、人間の心は実はかなり強いもので死を受け入れるのは本人にとってはそんなに怖いことじゃないかもしれないと思うのだ。もちろん「そんなの嘘だ。絶対に闘ってやる」という受け取りかたも一つの選択だ。人間生まれた時に既に死ぬことは決まっているから、死ぬと言うことは実は生きるということの裏返し。死に様は実は生き様でしかない。


昔聞いたユダヤ教の話(だと思う)にあと1日で死を宣告された3人の聖職者の話があった(世界の終わりが来る話だったかも。)一人は親戚友達を呼んで楽しい時間をすごし、もう一人は丸一日敬虔にいのりをささげ、最後の一人は全くいつもと変わりない日をすごしたと言う。


20代の頃は死期が分かったら身辺の整理をして、し残したことに優先順位をつけてさばいて行こう思った。つまり親戚友達と楽しい時間をすごすという選択だ。しかし今は余命を宣告されても、これと言って特別なことはしないだろうと思う。第一、そういう時点では右足の次に左足を出して歩むこと以外にはできなくなっているだろう。でも友達にお礼を言い、夫や息子たちには「愛している」ことを伝え肩を抱くことはすると思う。そして庭に来る鳥や移ろう光をただただ見つめるだろう。


ケアをされる方が「本人に絶対に告知してほしくない」という気持ちは、私が年老いた親に癌にかかったことを伝えることを躊躇した心理に似たものがあるのではないだろうか。「私が罹癌したニュースを聞いてすっかり気落ちしたらどうしよう。脳卒中になるかもしれない。もしかしたらずっと秘密にしていた方がいいかもしれない」と伝えることを非常に迷った。これは皆が感じることらしく、がん患者の中には親が他界して伝える必要がなかったことがラッキーだったという人も多い。


でも「もし自分の息子や夫が私に自分の病気のことを教えてくれなかったら私はどう思うだろうか」と考えてみた。そのニュースがどんなにつらくても一人前に扱ってもらって、ちょっと頼りにしてもらって、私のできる範囲で暖かい声をかけてやりたいだろう、隠されたら怒るだろうと思って伝えることにした。


80が近い父親をみて感じることだけれど、歳をとった人は私達よりずっと死に近いところで生きていてそれなりの諦念や納得をもっていて充分に死を受け入れられるようにも思える。もし彼が罹病して「あと1ヶ月だって」と言われたら、「そうか」と言って、老人力も発揮して今と変わらず朝夕のお経を唱えるような気がする。


もちろん皆さんがおっしゃっているように、告知をする阿吽の呼吸やタイミングはとても大事なのだけれど。


PS:私が生体検査の結果で癌であると電話で告知されたのは3年前のことだった。たまたま20歳の次男が同じ部屋に居たので「食道癌なんだって」とウェブでリサーチをしてもらった。当時ウェブに出ていた食道癌情報はとても悪かった。「そうか治癒率15%か。貴方も私も明日事故で死ぬかもしれないわけだから別に世界が変わちゃったってわけじゃないわね」と言い放った私は少し変なのかもしれないけれど。

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現在はkuwachann-2_0、id:kuwachann-2_0の日記にノー天気な記録を付けていますが、検診のような大きなイベントがあった時はこのブログもアップデートしています。。

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