蒸し暑い夏日。朝5時過ぎに起床してBWHへ半年に一度の検診へ。外科医とは12月31日に拡張後の面接をして以来なので、本当に久しぶり。CTスキャンを済ませてから胸部外科に行く。結果は問題なしで、次の検診は来年の1月である。06年の6月に治療を始めたから2年生存したことになる。


BWHはハーバードメディカルスクール付きの病院なので最初の問診はレジデント。その後執刀医だったB医師が現れるのだが、今日はまず日本の「回り灯籠」の話で始まった。昨日ボストン美術館のフィルムシリーズでそれを見たのだそうだ。昨秋に会った時はラーメンの話が枕だった。もしかしたら私と会う時のために話のネタを予習してくるのかしらと思うぐらいに日本に特化した話をしてくれる。


癌の発覚から、経腸チューブの挿入、ケモラジ、摘出手術にいたる一連の治療中、彼はかなりそっけなく、質問を箇条書きにしなければ何も話をしてくれなかった。ところが入院、術後検診、拡張を経て暖かい人柄にふれることが多くなった。特に昨秋この日記の闘病部分の英語版を進呈した時の彼は目がうるうるになって鼻が赤くなっていて私の方がびっくりしたぐらいだ。今になって思うのだけれども、彼はもしかしたら手術が終わるまでは患者との触れ合いを深くしないようにしているのかもしれない。


もうこれと言って逼迫して質問することもないのだけれども、先日から疑問に思っていたリンパ節廓清について聞いてみた。ケン三郎先生のブログでは54だったか?凄い数を廓清すると書いてあったからだ。私の場合は19個廓清。「日本では50個以上取っちゃうみたいですけど」と口を挟んだら「うん、良く知ってる。日本の場合は全領域を廓清するんだよ。脾臓をいじることもあるしね。その裏付けはほとんどないんだけど」とのこと(けん三郎先生以下、これは彼の個人的意見なのでご了承ください。)それにしても日本の事情も良くご存知。


そうか胸腔鏡を使った上に廓清の範囲も少なかったのか。。。だから回復が早かったのだと今頃になって納得。


また彼の場合は内視鏡を使った手術は行わない哲学だそうだ。内視鏡による病巣切除をした後に再発した後の再手術、死亡例をかなり経験しているらしい。BWHという病院の性格上、他の病院で手に負えなくなったものが回ってくるに違いない。「最初から摘出していれば命が救えたケースが多い」とのこと。


今日は彼の右腕だった先生の姿が見えない。フィラデルフィアの有名な病院に赴任したのだと言う。自分の父親を食道癌でなくしたイスラエルからの先生で、いつも苦笑いしながら「君のことだからもう読んで全部知っていると思うけど」と前置きして色々説明してくれた人だ。彼の連絡先を聞いたら携帯の電話番号を教えてくれた。携帯に電話をして忙しい人を煩わすのは気が引けると言ったら「僕はいつも煩わせてるから大丈夫だよ」と言う(それは先生だから言える台詞なんですが。)一言はお礼を言う機会をつくろうと思う。