昨日放射線癌科の先生が引用したのは、トルストイの短編「イワン・イリイチの死」だった。トルストイを最後に読んだのはいつだろう。多分20歳ぐらいの時の筈だ。


ロシア文学の長編は殆ど最初の2、30ページで挫折した。舌を噛みそうな長い名前に閉口してしまったのだ。もっとも中学時代に読もうとしたこと自体が間違いだったのかもしれない。しかし、短編は大学時代にかなり読んだはずで、この小説の名前にも覚えがあった。昨日の午後、早速夫に図書館に行ってもらった。


ロシア文学を英語で読むのも変な話だと思いながら読み始めた。英訳がいいのだろうか、読みやすい。どんどん引き込まれて行ってやめられなくなった。


20歳当時の感想は「ふん、小市民の死についての話じゃない」だった。人々が自己欺瞞で見ないようにしている日常の中の怠惰やごまかしを余りにあらわに綴っているので、深く考えたくなかったのかもしれない。いや自分が小市民になるのは充分に分っていたからこそ目をつぶりたかったのかもしれない。


トルストイは走馬灯のようになめらかに、しかし辛辣に、イリイチの高級官吏としてのキャリアと結婚生活、社交生活の裏にある空虚を描いて行く。今回私が感動したのは、痛み、苦痛、病に臥して始めて見えて来る周囲の人々の欺瞞と真実の描写のリアリティ、さらに最後の「死」の描写だった。解説などを読むと、キリスト教の救済などと書いてある。宗教的に、またトルストイの経緯からみるとその解釈は正しいのかもしれない。しかし、私にとっては、宗教の枠を越えた「生命の不思議」の、もっと大きい話に思えた。


世代を越えて読み継がれて行く文学には預言的要素みたいなものが沢山含まれていて、決して古くならない。読むたびに、行間に潜んでいる真実を発見する。どれだけ真実を発見できるかは、読み手の感性如何のような気がする。


1年ぐらい前にチェーホフの「鴨」の舞台を見た。その時も似たような感慨を得た。若い時は「欺瞞だらけの大人」としか読めなかった中年の登場人物たちが、哀しく愛おしくてたまらなかった。これまで生きたこと、様々な感情を体験したことで、舞台に感動できたことが嬉しかった。


たまたま今次男から「戦争と平和」を読めと薦められている。読み出すとまた止まらなくなりそうで、散歩もしなくなりそうで、躊躇している。