5月23、24日は友人で癌サバイバーのJと一緒に時間を過ごした。Jは卵巣癌。同じ頃に外科手術を受け、回復期には一緒に歩いたりした。Jは私が始めて米国に着た年に大学院寮の隣部屋だったという仲である。


昔から活発で勉強好きだった彼女。2年近く前から夜間で大学院の講座を取り始め、2つ目の修士を獲得しつつある。スピーチセラピストで障害のある子供達を教えている彼女の場合、講座や学位を継続教育として取得するとランクが上がってお給料のベースアップがある。年金はお給料ベースの80%で計算されるので、学位獲得は生活設計の重要な一部なのだ。動機はかなりプラグマティックなものであるけれど、50を過ぎて仕事をしながら、大学院のクラスをとるのは大変なことで、すっかり尊敬してしまう。でも、同じ癌でも食べることに問題がなく、スタミナが全く前に戻っていてそういうことができる彼女にちょっとした嫉妬心を感じる私でもある。


さて、以下に翻訳したThe Washington Post(2007年6月2日)の記事はJの友人Colleen Shaddoxの著したもの。かなりシニカルなもので、私の気持ちと100%同じというわけではない。多分その違いはColleenがこの記事を書いたのは癌に罹ってから10年後、私はまだ3年であるということにある。私は苦しい治療の中、ポジティブな姿勢を維持し、意地でも普通の生活を続ける人は大いに尊敬するし、気持ちの持ちようと回復に関係がないとは思わない。


しかし、ひたすら治療を受け入れている癌患者が「あなたすごいわね〜」と言われると気恥ずかしくなるのは事実だし、癌は進行する時は進行する ー ポジティブ如何に拘らず。ちょっと長いエントリーですが読んで頂けると嬉しいです。


道徳的な試練じゃなくて癌なの!

By Colleen Shaddox
2007年6月2日,The Washington PostA13

「勇気があるね」「本当のヒーロだ」

髪が抜けた時そんな言葉を沢山聞いた。化学治療のせいで私はその週の映画に登場した勇敢な歳若い主人公のように見えた。もし私が他人の癌の痛みを解放する為にボランティアで癌になっているなら、それはヒロイックだ。しかし私はボランティアで癌になったんじゃない。

「私に勇気があるわけじゃないの」「単に不運だったの」と私は答える。

これを聞いた人は居心地が悪くなる。でも私は不当な褒め言葉を受け入れるよりは、あるいは癌で亡くなった人の名誉を汚すようなコメントを聞くよりは、この返答をえらぶ。

過去10年間、私は癌サバイバーだ。その間に私の結婚はより堅固になり、元気な赤ん坊は天才的な皮肉屋になり、私のキャリアは躍進した。この命に毎日感謝している。

癌患者であることは大変なことだ。手術、化学治療、放射線治療、そして苦痛を伴う時期尚早の死の可能性、1人では背負いきれないぐらいだ。それに 聖人君子になる重荷が加わると重くなりすぎる。

小柄で頭がくりくりの私がごく普通のこと(例えばスーパーでの買い物)をしているのをみて、 赤の他人がまるで子供を自慢する親のように微笑む。そして「なんて勇敢なんでしょう」と叫ぶ。

スーパーでの買い物は、癌に罹っている人にとっても必要な活動であり、別に危険なものではない。しかし私を賞賛する人はまるで私が突然非凡な人になったように続ける。「私には絶対に貴方みたいに勇敢にはなれないわ」と。

その良く繰り返される台詞には大きな含みがある。つまり、癌は非凡な人々のもので、普通の太郎や花子が心配する必要のないものだという暗喩だ。健康な人の心理でも、癌に対する恐怖は非常に大きい。意識的であるかどうかに拘らず、癌患者を聖人君子にすることで、「他人」はその恐怖をコントロールしようとしている。

私が乳癌と闘っていた時、「神様は貴方みたいに善良で優しい人の命をうばうことはないよ」という言葉を良く聞いた。そう信じることができれば素敵なことだ(私は教会に通っていたから。)私はスープキッチン(ボランティア)で仕事をしたし、トイズフォートット(訳者注:クリスマスに貧しい子供達のためにプレゼントを送るチャリティー)のためのファンドレージングもした。でも私はマザーテレサではなかった。それに美徳があるからといって人は不死になるわけではない。あのマザーテレサでさえ、他の人と同様に亡くなった。

人柄、性格のおかげで免疫が強くなるという意見に懐疑を表明すると、しばしば「ポジティブな姿勢」を維持しなきゃいけないよというお説教をもらったものだ。ちょっとロジックを考えてほしい。インフルエンザに罹った場合には「まあ、大変ね。気分がよくなるといいわね」と言われるのに、癌に罹った場合にはポジティブな態度を維持し、負けないことを期待されるのだ。殆ど面識のない人からバーニー・シーゲルの「治らない病気はない。治らない人がいるだけだ」みたいな引用を聞かされたものだ。

究極的に言うと、ポジティブな考え方が重要だと強調するのは恐怖を管理する一手法なのだ。そう考えれば癌がコントロール可能なものになる ― 患者に取って、いや特に健康な人にとって。しかし、美徳や抵抗を生存と結びつけてしまうと癌で亡くなった人々の名誉をけがすことになる。

テレビで癌に罹ったアスリートの番組があった。そのアスリートの強い意志力と最終的な生還について「いや〜、癌も人を間違いましたね」とインタビューされた人が語っていた。つまり癌の方で選ぶべき適切な人がいるってことなんだろうか?

治療中の私は女性のサポートグループのお陰で正常心を保つ事ができた。でもそのグループの半分は亡くなってしまった。亡くなった人々は死亡率の高い癌にかかっていたり、発見時の癌の進行度が高かったのだ。彼女らは強く、賢く、親切で、本当にすばらしい人々だったので、私も癌患者が聖人君子なら治るという神話を信じたいぐらいだった。でも彼女達だって普通に駐車違反をしたし、約束を忘れたりした。彼女達は人間だったのだ。そして私は彼女達のそんなところが好きだった。

私の友人達は細胞に裏切られて亡くなったのであって、意志力に裏切られたのではない。癌が怖いのはそれが、かけがえのない母親や、兄弟や、子供達や友達を襲うからだ。何をどう努力しても一部の人は亡くなってしまう。過去に癌に罹った人、あるいは現在闘病をしている人々を讃える時、その言葉がいったい誰を慰めようとしているのかを考えるのが重要だ ― 声をかけているその人自身のためなのか、サポートが必要な人のためなのか。