今日は教会に来年1年の寄付額をコミットする日。子供の頃、親戚にキリスト教徒の方がいた。母は誘われたらしいが「教会はお金をとられるからね〜」と言って拒否していた。生活が順調な時でも寄付をお願いするのは難しいから、今の時期はなおさらである。


前にも書いたけれど、米国には「お隣」がない。私の育った頃の鹿児島では回覧板、子供会、愛護会とかが近所単位であって、好きでも嫌いでも義務的に参加しなければならない。父の仕事のせいで転校が多かったからか、その手の活動はめんどくさく、違和感があり嫌いだった。でも、それが地元のコミュニティだった。ところが米国では全くそれがない。近所に住んでいても名前を知ることもない。かわりに、教会がコミュニティになっている。子育てをするにあたり、コミュニティを求めて参加したのが今の教会だった。


コミュニティを自覚したのは癌にかかった時だった。夫の大学の同僚や教会の人々が車の運転をしてくれ、週に2回は夕食を届けてくれた。その全てが義務ではなくボランティア。米国社会の中にいつの間にか根っこができていた。「他人の親切を受け取る」ことを学んだ時だった。



アセッサーと言って寄付を募る係の人が壇上に立って「配当の行く末が全く分からない現在、教会への投資にはコミュニティの活性化という保証がある」と述べた。本当にそうだ。来年の寄付額を少しだけ上げた。



ところで、米国の税制は寄付を奨励するように出来ていて、チャリティに寄付したお金には所得税がかからない。ボストン美術館のような大きな組織が寄付だけでなりたっているのはそのお陰である。