夕食の後あまり時間をおかず散歩に出たら、やはり腸が反応した。ダンピングとまでは行かないのだがちょっと不快感を感じたので寝室に退去。テレビのリモートをPBSに合わせた。


でっぷりと太ったプレスリーが縫い取りの一杯あるゴワゴワした感触の白いステージ衣装をまとい、だらだら汗をかいている。唄っているのはゴスペルの定番「聖者の行進」。たしかこれは「プレスリーオンステージ」の一シーンの筈だ。彼の脂汗のせいであちこちかゆくなるような気がする。「なんでそんな趣味の悪いのみてるんだ」と夫や息子がドアを開けたらどう言い訳しようかと一瞬思う。でも同時に「うわっ、ラッキー、30年ぶりの邂逅だわ。ぜったい見なきゃ」と興奮している自分もいる。


大学生の頃だったか「プレスリーオンステージ」を見て暫くの間彼のファンになった。生理的に「中年のお腹」とか「しまりのないお尻」が許せない年齢だったのにサーカス衣装に身を包んだデブデブ、汗びしょびしょの異形のプレスリーは大丈夫だった。ステージ上のプレゼンス、カリスマにひかれたのだろうか。それとも彼の唄う英語の歌が分りやすく唄いやすかったからだろうか。



ファンになったことを認めるのが恥ずかしいのは何故だろう。入れ込んでラブラブの現在進行形の時でさえ、その事実を認めるのは告白に似た勇気を必要とする。たぶん夢中になりながらもその対象の欠点をしっかり認識していて「『その程度のスター』に入れあげている自分に呆れている自分」がいるのだ。そして周りの人も『呆れているだろう』と薄々感じ、後ろめたいのだ。


しかし「昔ファンでありました」の場合は、その恥ずかしさが倍増して「絶対に人にはいわないぞ」「何であんなのに夢中になったんだろ」という場合と、恥ずかしいけど「やっぱり私の目は正しかったね」「人に言っても大丈夫」というのの2つに分かれる。


プレスリーは「絶対人には言わないぞ」に属する(とここで公表しているのは矛盾なのだけれど。)それは多分プレスリーの米国に於けるあまりの特異性のせいだ。死後30年も経っているのに、未だにタブロイドに「生きてるプレスリー目撃」とか出ることがあるし、ラスベガスでは「もどきショー」で今でもあのサーカス衣装をまとったプレスリーのコピーが客を呼んでいる。小泉前首相の訪問したグレースランドプレスリーの住んでいたけばけばしいマンション)を訪れる人の波は絶えない。屍になってからも毒々しい芳香を放っているところがあまりにも下品で恥ずかしい。それに今日テレビでちょっと見たプレスリーの汗は病的だったし、音程もかなり外れていた。


PBSの番組のタイトルは「プレスリーライブス」。「プレスリーオンステージ」の画面をステージに大きく投影して、本物のミュージシャンやオーケストラが彼の歌声に合わせてライブで唄い、演奏する。勿論「まるで本物のプレスリーのステージのように」観客も入っていてライトを手にして泳がせていた!ここまで来ると化け物だ。