今日はMITでの仕事だった。日本のグループが持って来た提案に対していくつかのラボのリサーチャーがコメントをする一場面のお手伝いである。日本の方々が一生懸命出しぼり出してきた提案の1ページ、1行ごとにポンポンと小気味良いぐらいに質問やコメントが飛び出す。そしてそのコメントたるや全く予想もしなかった方向から出て来て来るのだ。従来の見方や考え方をこねて、もんで、ひっぱって、ひっくりかえして、新しい形に変容させる。パラダイムシフトの過程を覗いたようなものだ。


こういう思考の調理の臭いを嗅いだのは、ピッツバーグ言語学をやっている時だった。自分が出した提案に教授達が無慈悲な批判をする。もしかしたら彼らは単に「こねて揉んで」くれただけで「無慈悲」ではなかったかもしれない(と今になってみれば思う)けど、その先の出口へのガイダンスがなく途方に暮れて傷ついた。その批判はプロポーザルに対するものだったのだろうけれど、自分の能力への批判みたいに受け取ってしまったのだ。私が日本人だったからそう感じたのだろうか、万人が感じるのだろうか、それとも感受性や性格のせいなのだろうか。もっとも大学院レベルになると出口を自分で探すことを求められている訳で、周到な淘汰過程でもあったから、あながち誤解でもはなかったのだろう。頑張ればできるのレベルを超えた「向き、不向き、才」のリミットがあることを思い知らされた苦いけれど貴重な経験だった。


でもアイデアがこねられ、揉まれて行く過程を外から眺めるのはとてもエキサイティングだ。そしてそれを生業にしている人々と触れることも。このアイデアが調理されどんな成果をあげるのだろう。今回の仕事はエージェントから来た一期一会の仕事なので、このグループと出会う事は2度とないだろうけれど、とても楽しみだ。


それにして,今回お会いしたMIT側のリサーチャーの多くは日本語も英語も素晴らしくお出来になって(日本人の方も日系人の方もいらした)、話者の意志や意味を必ずしもパーフェクトに伝えられない自分が恥ずかしくなりました。話が面白くてワクワクしながら仕事をしていた反面、まるで「私は凡人です。なのに厚かましくこんな仕事をしています」と大きな看板をかけて檻の中を歩いているような気もしたのです。